2017年08月08日

フィリピンにド沈没してみた2

首都マニラに到着後、数週間はルソン島北部のバギオ、スービック、セブ島やボホール島、ミンダナオ島のバギオなど各地を訪問した。フィリピンは7107もの島から構成されている国なのだ。それで分かったことはマニラだけが飛び抜けた都会で他の地域は全く何もない田舎そのものであるということだった。特に南部のミンダナオ島は貧しく、またマレーシア側からのイスラム教の影響もありカソリック教徒との内戦が未だに続いている地域であった。

ところが意外にもマニラの歓楽街や日本を含む海外へ出稼ぎに来る女性達はこのミンダナオ島出身者が多かった。ポルトガル人のマゼランが1521年にフィリピンを発見した時、彼はセブ島へ上陸した。欧州でフィリピンの情報が伝わるとスペインがミンダナオを始めとする南側の島々に入植し始めた。そのためフィリピン南部はスペイン人との混血が進み南部にあって肌の色が白いメスティーサと呼ばれる容姿端麗なフィリピン人女性が多いのだ。女性達は美しさを武器に様々な地域へと向かうのである。

私はマニラに戻ると滞在費を稼ぐために日系の小さな食品会社に働き口を見つけた。条件はローカル採用、つまりフィリピン人と同じ待遇で雇用されるということである。月給5万ペソ=約10万円である。日本から来る駐在員の待遇とは雲泥の差だ。それでもボロいとは言え社員寮に住まわせて貰い、賄いの食事がついたので物価の低いフィリピンでは十分に暮らしていける額であった。他のフィリピン人社員が1万数千ペソで雇われていることを思えば数段良い条件である。日本語と英語が話せるということで経営者の日本人と従業員の間のパイプ役をやらせようと言うことで少し上乗せがあったのである。

仕事は日本から密輸した闇米を日本食材店に卸す仕事だった。毎日フィリピン人の同僚と共に軽トラックに乗り込み米を配達し、同時に注文を取ってくるというルーティンワーク。仕事自体は非常に簡単で短期間ですぐに慣れることが出来た。覚えが良いと思ったのか社長はどんどんと私に新しい仕事を任せるようになった。米を注文し輸入する実務や買掛金の送金手続き、売掛金の支払いなど内容は多岐に渡った。暫くすると他のフィリピン人の同僚達に一目置かれるようになった。最初は入りたてで経験も無い私の方が彼等より給料が高いことを妬んでいた彼らも私の働きぶりを見て仲間と見做してくれるようになっていった。

一度、仲間になるとフィリピン人と言うのは底抜けに楽しい連中だ。仕事が終わるとビリヤードやカラオケ、ポーカーなど様々な遊びに誘われるようになった。彼らは皆ミンダナオ島から一攫千金を夢見て大都会マニラに出稼ぎに来た連中だった。女と違い南部の男達は美しさを武器に仕事を見つけることなど出来ない。つまり過酷な重労働に従事しなければならなかった。彼らは非常にアクセントの強い独特の言い回しの英語を話すのだが、それはタグリッシュと呼ばれていた。英語とタガログが混じった言語という意味だ。そして特に南部の人間達に特徴的なのがEとIの発音が入れ替わる現象だった。

フィリピンに来た頃にはよくわからなかった「セール」という言葉。実はこれは英語のSIRだったのだ。普通なら「サー」と発音するのだが、IがEになるので「セー」となり、そこに巻き舌のアクセントが加わって「セール」となるのだ。つまり、「セール」と発する男達は南部の出身者だと分かる。日本でもフィリピンパブの女性が「オニガイシマ〜ス」と言ったりするが、これは「お願い」=ONEGAIのEがIの発音になるため「オニガイ」になるのだ。こんなことも日々の仕事とアフターファイブの交流の中で覚えていった。

ある日、日本から駐在で来ていた日本人幹部の一人がフィリピン人従業員に激怒していた。その幹部は海外に行かされることなど全く考えもしたことが無い人だったので英語のえの字も無い状態でフィリピンに駐在し毎日言葉の壁に苦労していたのだ。誰かがヘマをするとその当人と私が一緒に呼び出された。私は通訳なのだが何故かローカルスタッフのリーダー的扱いをされていたので一緒に怒られることが多かった。その日も幹部はめちゃくちゃな英語でキレまくっていた。

「おい、レイマン!テメー何やってんだよっ、このオクトパスがぁ!」横で聞いていた私は腹が捩れそうになった。彼は「このタコ」と言いたいのだ。更に彼の言葉は続いた。「プロブレムだろ、プロブレムー!」。そして、「そんなんじゃなあ、お前マニラベイにドボンだよ!」。ソーリーセ〜ル、ソーリーセ〜ルと只管謝るレイマン…。私はこの殺人的におかしな場面に堪えきれずに大爆笑してしまった。どうやらマニラベイに沈めたいらしい…。これでは伝わる筈がない。当のレイマンも仕事が終わった後、「タコラさん、ボスはオクトパスがマニラベイで問題だって言ってたけど…どういうことなんだろう?」と真剣な面持ちで聞いて来た…。彼は英語が聞こえた部分だけを必死に拾って理解しようとしていたのだ。

しかし、言葉が出来ないのは日本人ばかりではない。英語が堪能と謳われたフィリピン人も実際にはそれほど英語が上手いとは言えないのだ。いま、50歳以上の人達は非常に流暢な英語を話せる人が多い。フィリピンは1950年代までは米国の保護の下でサトウキビ貿易でアジア随一の経済大国だった時期があるのだ。その頃までは非常に高い水準の英語教育が行われていた。だがその後の経済の衰退と共に英語教育の質も低下していった。そのため世代交代が進んだ後の今の若者達はお世辞にも英語が上手いとは言えないのだ。

現代のフィリピンで英語を流暢に話せることは実は特権階級の証でもある。富裕層は子供達に高い水準の教育を与えることが出来る。彼らは米国の一流大学へ留学し大企業の要職に就くのだ。そんな彼らの暮らしぶりをTVのトレンディードラマが一般市民に見せつける。特権階級=英語が流暢、という意識が人々には根深く植え付けられているのだ。だから逆に英語がわからないということは貧しさの象徴とも捉えられている。そのため誰に聞いても皆一様に英語が話せない、わからないとは絶対に言わないのだ。

フィリピン人達と話していると会話が成立しないことが多い。例えばYESかNOかで答える質問をしても「それは神のみぞ知る、だな…」などと答えられたりする。これは英語が分からない人が「分からない」と言えないがためのプライドによって引き起こされる現象だ。質問された方は必死で相手の言葉の中にある知り得る限りの英単語を拾い、それらをつなぎ合せて相手が言っていることを想像して答えようとするのだ。もし仮に「お前、英語がわからないんじゃないのか?」などと言おうものなら、彼らはプライドを気付つけられ逆上する。下手をするとナイフや銃を取り出してくる。普段はニコニコしているフィリピン人だが怒った時は手が付けられないほど恐ろしい。不用意な発言は命取りになるのだ。

相手が女性、しかも若い女性となると余計に英語の下手さを指摘することなど出来ない。人前で泣かれでもしたら周囲の人が集まってきて大変なことになる。フィリピン人は世話好きなので周りの人達が「なぜ泣かせた!」などと追及してくるからだ。その時に「彼女が英語がわからないから…」などと言おうもんなら反感をかって袋叩きにされる可能性がある。信じられないような話だが本当だ。

闇米商で働き始めてから半年ほど過ぎた頃に同僚のフィリピン人女性とデートに行くことになった。とても可愛らしい女性だったため私も有頂天になった。普通はフィリピンでは男性から女性に愛を伝えるものとされている。それなのに彼女の方から誘ってきたのだ。否が応でも気持ちが盛り上がってしまう。約束の場所で待っていると携帯電話にメールが届いた。デートの常だが少し遅れると言う。そして次のメールにはこう書いてあった。「Please wet」=おもらしして!彼女もまたwaitの綴りがわからないくらいに英語が出来なかった。その後のデートで会話が全く盛り上がらなかったのは言うまでもない。それを機に私はタガログを覚えようと勉強を始めたのだ。何とも不純な動機である。

<続く>

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ラベル:フィリピン
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2017年08月07日

フィリピンにド沈没してみた1

イタリアとの国境を接する町、フランス・ヴァルディゼール。スキー客で賑わう標高1600メートルの小村にあるスーパーマーケットでパートタイムの仕事に勤しみながら週一回の休日にスキーを楽しむ生活をしていた。スーパーの賄い飯はあまり美味とは言えなかったが暮らしに余裕のない私に贅沢は言えなかった。それでも週に一度だけは少し贅沢をしようと向かいにあるホステルのレストランに通ったのだ。そこにはスカンジナビアからの大学生達がアルバイトをしていた。そのうちの一人に何とも愛らしい女性がおり、私は一目で魅了されてしまった。う〜む、何とかしたい(笑) 私はスーパーの休憩時間にホステルへ行くと同じく休憩中の彼女に意を決して切り出した。「今晩、一緒にバーに飲みにいかないか?」暫く沈黙が続いた後にOKの返事を貰った。

その後のスーパーの仕事が恐ろしく捗ったことは言うまでもない。そして彼女の仕事が終わる午後10時にホステルからほど近い電気店の前で彼女を待った。しかし1時間待っても彼女は来ない…。標高1600メートルの雪の降る村での1時間は筆舌に尽くしがたい寒さだ。落胆と生命の危機を感じながら我慢の限界に達し、私は一人で彼女と行くはずであったバーへと向かった。すると入口のセキュリティーガードの男が満面の笑みを浮かべながら私に言った。「おっ、色男の登場だよ〜。お前、無謀にも彼女を誘ったんだってなあ。ひゃあっはっは〜!彼女、この店の奥でもう一人の色男と飲んでるぜ〜。」こんな小村だけに私の黒髪は東洋人として独特のアイデンティティーを示していた。暇な村人の話題に私は常に登場していたようだ。なんで知ってるんだよ?!とガードの男に聞く間もなく私は店の奥へと走って行った。するとお目当ての彼女は”彼氏”と共にランバーダーに興じている最中であった。

私の胸の中で大雪崩が起きた音が響き渡った。あゝ、もうこんなところは嫌だ。フランスなんか糞喰らえだ。もういられない。すぐさまスーパーの寮へ引き返すと私は大急ぎで荷物を纏め旅立つ用意を整えた。翌朝、世話になった店長に「母親の具合が悪いらしいから急いでジャポンへ帰らないといけないんだ…、急に辞めることになってごめんよ。」と伝えると、彼は「いいって、いいって、気にするなよ。緊急事態なんだろ?ぷ〜、クスクス!」と嬉しそうに言った。駄目だ、この村は呪われている。一刻も早く離れなければ。私はバスで下山すると一路ジュネーブへと向かった。
空港へ到着する頃になると私は少し我に返って自分を取り戻していた。逃げるように出てきたもののこれからどこへ行くのか全く決めてなかったことに気が付いた。茫然とフライト発着ボードを見上げながら暫く動けないでいた。するとある考えが閃いた。そうだ、フランスを全否定する国へ行こう。暑くて文化的なものなど何もない国が良い。バックパックから世界地図を取り出すと床一面にひろげて眺めてみた。東南アジア、マレーシア、インドネシア、ベトナム、フィリピン…、そうだフィリピンに行ってみよう。これがマニラへ上陸することになったきっかけである。なんとも不純だ。

ニノイアキノ国際空港はフランスのシャルルドゴール空港とは全くの別世界であった。とにかくボロいしよく分からない変な臭いもする。これが国の玄関口である国際空港なのか?!驚きを隠せないまま通関所へと向かった。すると「MABUHAY」と掲示されている。意味が分からない。困った、外国人はどのカウンターに並ぶのだろう?仕方なく免税店の店員に尋ねることにしたのだが…。「MABUHAYというのはどういう意味なんでしょうか?」男性店員は私に一瞥をくべると「ようこそってことよ〜ん。」と屈託のない笑顔で教えてくれた。何となくホモっぽい…。そして「キムチ、キムチ!」と手の平を差し出してきた。私は韓国人だと思われ更に馬鹿にされたと感じ、そのホモに背を向けると何も言わずに通関所へと戻って行った。

通関所を抜けるとバゲージクレームエリアで自分の鞄を探した。すると空港職員と思しき男が頼みもしないのにカートを持ってきて使ってくれと言う。そして、「キムチ、キムチ〜」と言った。その男も手のひらを差し出してきた。一体なんだというのだろう。カートを断り、男を追い払うと自分のバックパックをピックアップして税関へと進んでいった。するとそのカート男が税関におり別の職員に耳打ちをしていた。私は鞄を開けながらパスポートを差し出した。税関職員は私のパスポートを受け取るとなかなか返そうとしなかった。私は手を差し出して「返してくれ」という仕草をした。するとその職員も同じように私に手を差し出し「キモチ、キモチ」と言った。私はようやく気がついた。彼らは「気持ちばかりのチップをくれ」と言っていたのだ。そうか、そういうことなのか。恐らくどこかの日本人のおっさんがチップを渡したためこいつらは癖になっているのだろう。まだペソを持ち合わせていなかったため1フラン紙幣を代わりに握らせた。当時のレートで22円くらいだったが、フランの価値が分からないと見え職員は嬉しそうにパスポートを返すと私を外へと出してくれた。そしてこう言った、「マブハイ、ピリピーン!」。

なかなかの好スタートである。アバンギャルド過ぎる。適当に決めてきた国の割にはかなりのヒットを打った予感がした。タクシーでマニラへと向かった。途中、車窓には恐ろしいほど貧相なバラック小屋が流れていった。空港のそばに貧民街があるのか…。しかしどこまで走ってもその貧民街は続いた。なんという巨大なゲットーなのだろうか。30分ほど走ったところでタクシーを降りたのだが、そこもまた古ぼけた佇まいの街並みであった。もう、街全体が貧民街という感じだ。なんだかすごいところに来てしまったゾ。

気が付くと大勢の汚い子供達に囲まれていた。ウェアユーゴー?ウェアユーゴー?と口々に叫んでいる。その中の一番背の高い少年に空港で聞いてきた宿の名を告げる。すると彼はハウマッチ?と聞いて来た。フランを渡そうとすると首を横に振って言った。「ダラー、プリーズ、セール!」最後の言葉は良く聞き取れなかったのだが、1ドル札を渡してみた。彼はベストスマイルを見せると私を宿へと案内してくれた。その間中、十数人の汚い子供達が付いて来た。まるで何かの団体様だ…。

宿に着くと入口のガードマンが子供達を厳しい口調で追い払った。「ウェルカム、セール!」と言いながら私を中へと案内してくれたのだが、あの「セール」というのは一体なんのことなんだろう…。取り敢えず部屋に入り荷物をドサリと置くと疲労感が襲ってきた。ここまで随分な勢いをつけてやった来たのだから不思議もない。フランスでの出来事やこれからのこと、時差ボケなどが混ざり合い頭が混乱してそのままベッドに倒れこむように眠りこんだ。しかしあまりの暑さのためすぐに目が覚めた。エアコンをつけ忘れていたのであった。スイッチを入れる…。ガイーン、ゴガゴガ、ガイーン!モーター音の大きさに驚かされ唖然とした。これでは休めない…。

喉の渇きを潤すため宿の外へと飛び出した。ちょうど正面に日本食店?のような微妙な出で立ちのレストランがあったので中に入ってみた。「ウェルカム・セール」と女性店員の声が響く。再びさきほどからの疑問が湧き起こる。セール…?ただそんなことよりも早く何か飲みたかった。サンミゲルというブランドのビールを頼む。しかしなかなか出てこない。店員に催促すると面倒くさそうにゆっくりとした動きで栓を開けた瓶ビールを運んできた。一気に飲み込む…、が、ヌルい。ヌルいのだ。こんなクソ暑い日にヌルいビールなど有り得ない。「もっと冷たいの出してくれよ!」と半ギレになりながら叫ぶと、またダルそうに店員がやってきて私の飲んでいるコップに氷をドガッと放り込んだ。あゝ、何も言えない…。凄いぞ、この無気力さ。

氷水で薄まったビールをやりながらこれからのことを考えた。もう少し安い宿を探せないか、どの辺りが繁華街なのだろうか、様々なことが頭を巡る。人間不思議なもので考え事をすると腹が減ってくる。メニューを見るとフランスでは見ることが出来なかった和食の数々が書かれていた。「ヘイ、ミス!ワン、シラスおろし!」と注文すると「ワン、シェラスウォロシ〜!」と店員が厨房に叫んだ。オウム返しに厨房から「ワン、チラスウォロシッ!」と声が響いた。そして待つこと20分、やっと店員が料理を運んで来た。テーブルの上にやけに大きめの器がテーブルにガシンと叩き置かれた。そこには「散らし寿司」が載せられていた…。

ミラクルだ!この国はミラクルが起きる国だ!あまりのアホさ加減が逆に凄く気に入ってしまった。凄すぎるぞ、マニラ。私は思わずエキサイトしてしまい、これから起こるであろうミラクルに期待感でいっぱいになってしまった。ヌルいのだがもう少しビールが飲みたくなったのでダルい店員を呼ぶ。今度はメニューのクアーズを指さしてみる。「フィッチワン?」と聞くのでメニューを覗くとクアーズとクアーズ・ライトの文字が見える。あゝ、そういうことか。「Light! Light!」と頼む。そして10分後に皿に載せられたごはんが運ばれて来た。「ライス…」。

<続く>

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ラベル:フィリピン
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2017年08月06日

アメリカの思い出4

「あれ、Jamesは?」「子供を学校へ迎えに行くからって、さっき帰ったぜ。」とこんな会話は日常茶飯事でした。アメリカでは保育所や託児所が殆どありません。一握りの大企業だけが会社内にそのような施設を設けているのです。そんなことも知らずLAへ着の身着のまま渡ってしまった私は、アメリカは男女平等が進んでいて女性の社会進出の為の施策が積極的に進められているものだと思い込んでいました。実態はまるで逆。共働きでなければ暮らしていけない為、女性も働かざるをえないというのが現実の姿でした。時には既述のとおり男性が子供の面倒を見なければならないこともあります。兎に角、暮らしにくい社会、それがアメリカ。映画の中に観た洒落た日常や広大な庭に囲まれた邸宅、ハイウェイを颯爽と走る高級車、そのどれもが全て幻でした。

LAには日本人と韓国人女性が働くソープランドがあります。日系食堂で働く若い日本人女性がこっそり耳打ちしてきました。「今月チップが少なくってさ、家賃やばいんだ。後で良かったらここに来てよ。」と言って住所と電話番号が書かれた紙切れを渡してきました。馴染みのラーメン屋のウェイトレスがソープで働いていたことを知り驚愕しました。私も経済的に余裕は無くそこへ行くことは出来ませんでした。しかし、沸き起こる好奇心から私は後日彼女に電話をかけてしまいます。「助けになれなくてゴメンね、自分もギリギリだからさ…」「ううん、いいよ。やっぱりそうだよね…」。元々彼女は留学生でした。大学で知り合った白人男性はジャンキー崩れのバカで、彼女と付き合い始めるや否やドラッグ代をせびり始めました。気がつくと日本から送金された授業料が無くなっていました。

英語で囁かれる愛の言葉は耳に心地良く、彼女は盲目的に男性の言いなりになっていました。しかし大学に行けなくなるような事があっては親に顔向けが出来ません。異国の地で頼れる友達も少なく途方に暮れている時に、盛り場で見かけたことのある女友達からソープの話を持ち掛けられました。渡りに船とばかりに何の躊躇も無くその仕事を始めてしまいます。しかし、急に金回りの良くなった彼女を男性は疑うようになり、挙げ句の果てには酷い暴力を振るうようになりました。やがて男性は大学を中退し故郷の田舎町へと去って行きました。彼女自身は成績が落ちてしまい、やはり中退を余儀無くされました。「私、何でこんなところに居るんだろう?」と言った後、啜り泣く声が受話器から聞こえてきて私の胸に刺さりました。

DV=ドメスティックバイオレンスはアメリカの大きな社会問題の一つに数えられています。外では鴛鴦夫婦を気取っていても、家庭内では地獄のような様相を呈しているという夫婦が私の身の回りだけでも本当に沢山いました。仕事をサボって野球を観に行きクビになった夫、勝手にダイエット器具をカードローンで買ってしまう嫁。どちらもどうしようもない状態、どうしようもなくくだらない事で痴話喧嘩を繰り返している人達。アメリカ人は馬鹿なのか?半年も経たないうちに私の中の憧れの国は、瓦礫置き場のような無為な場所に変わってしまいました。アメリカンドリームはアメリカのどこにも無かった…。見つけたのは壊れかけた社会システムの中の無力なちっぽけな自分だけでした。「俺は何でこんなところに居るんだろう?」。私もまた自問自答を繰り返すようになっていました。

休日になると金のない私はサンタモニカやロングビーチ、ラグナビーチといった海岸へ行き、一日中何もせずにただ座り込んで陽が沈むのを見ていました。そのうちホットドック売りのメキシコ人と顔馴染みになりました。「ホンダで働いてるのかい?」「そんないいもんじゃねえよ、日本人にも貧乏な奴だっているんだぜ。」「そうなのかい、Welcome to Los Angeles!」と言って小さな売店の中から出てきました。彼が言うには海岸沿いに並ぶ高級住宅の殆どは華僑の持ち物なんだそうで、その殆どは中国で生産させた安価な製品を仕入れてアメリカで売捌き一攫千金を得たにわか成金ばかりということでした。「彼奴ら最低だぜ。態度は悪いし、チップはケチるし、ろくなことがねえよ。お前もチャイニーズに間違われないように注意しな!」。

僅か半年足らずで私は私の中のアメリカを失いました。ハーレーダビッドソン、ルート66、グランドキャニオン、ラスベガス、コダックシアター、ビバリーヒルズ、ロックンロール、ブロンドガール、キャデラック…。まるで幼稚じゃないか!サンタモニカの近くにイーグルスのホテルカリフォルニアのアルバムジャケットに使われたホテルがあります。
Welcome to The Hotel California. You can check-out any time you like, but you can never leave!「ホテルカリフォルニアへようこそ。チェックアウトは御自由ですがきっとご満足頂けると思います」。アメリカで生まれた者は夢を失おうともこの国で暮らしていかねばなりません。私はアメリカへの失望の中で自分が日本人であることをはっきりと自覚しました。LA国際空港での最後の食事は、キツネうどんでした。次にアメリカへ来ることがあるとしたら、きっと今の自分じゃないはず…。そう自分に言い聞かせながらLAを後にしました。

終わり

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ラベル:アメリカ
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