2017年07月26日

UAEの秘密

真面目な話が続いたのでこの辺りで少しエロを挟んでおきます(笑)DUBAI=ドバイに行った時の話しです。詳細はほとんど話せませんが、某大手企業との商談でこの地を訪れました。元々この地域はイギリスによって管理され、東インド会社への貿易中継地として栄えた歴史を持ちます。また私は当時マニラに住んでいたのですがフィリピン人の出稼ぎ労働者達がこぞってドバイへと働きに出かけていました。とにかく自分の身の回りでドバイの話が出ない日はありませんでした。物凄く注目を集め、活況を呈していたこの国へ行ってみたいと思っていた矢先に仕事の話が私にも舞い込んだのです。世界一の高層ビルであるブルジュハリーファが完成する前の2003年頃のことでした。

現地では日系大手ゼネコンと日系商社の駐在員が出迎えてくれました。商談を終えアラブ人の客先を交えて彼等と食事をした時に色々な話を聞かされました。この国はインド人とパキスタン人、フィリピン人達が出稼ぎ労働者として建設現場を支えていました。2年契約で月給は3万円。日本と比較すると恐ろしいほどの低賃金ですが、継続して安定した収入が得られることは彼等の本国では難しいことですのでこれでも魅力的な条件だということでした。また街は元々砂漠ですので何もないと言っていました。見るべき所は高級ホテル群とリゾート邸宅群くらいだと。後は労働者の住む鄙びた居住区があるがそんなものを見てもあまり意味がないと。

商談相手の成金アラブ人達は優雅な生活を送っていました。とにかく金さえ出せば手に入らないものはありません。イスラム教の戒律が厳しく規制で雁字搦めのイメージがありますが、実際には全く逆です。食事の後に連れて行かれた高級クラブでは世界各国の一流酒が置いてありました。そして接客をする女性達は美女ばかり。ロシア人、インド人、パキスタン人が多くいました。私の隣についたインド人の女性は訛りのない綺麗な英語を話す人でした。ホテルに戻る事になり会計をしようとすると商社マンが耳打ちしてきました。連れて帰りますか?

流石の私でも映画女優のような美しい女性達がそこまでするとは予想していませんでしたので、この一言には非常に驚かされました。いや、私はインドの方はあんまり好みではないので…と相手の申し出を適当に流しました。するとアラブ人達は私が接待に満足していなかったと思ったらしく、それでは後ほどエスコートサービスの情報をメールで送ります、と言ってきました。海外では高級コールガールに接客をさせることをEscort Serviceと言います。そして送られてきた資料がこの写真のようなものでした。100% Verified Photoと言うのは、加工された写真ではなくて本当にこの通り偽りの無い内容であることを確認済みです、という意味です。東欧諸国の他にも中華系も沢山の写真が掲載されていました。

ドバイは表向きは厳粛なイスラム教国の体を装っていますが、実際には金さえ出せば何でもできる酒池肉林の国なのです。いやいやいや、まるで映画みたいな世界ですが、あるところにはあるものです。

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ラベル:ドバイ
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2017年07月25日

外灘の旧金融街

黄浦江沿いに建ち並ぶ旧金融街は上海を象徴的に表す観光名所で外灘(ワイタン)と呼ばれています。東インド会社のアヘン貿易。その違法な取引で稼いだブラックマネーをロンダリングする為に作られた銀行の集積地です。その中の一つに1955年までチャータード銀行上海支店が入っていた外灘十八号(ワイタンスーパーハオ)というビルがあります。このビルの竣工は1923年でした。パーマー&ターナー事務所が設計した新古典主義の建築スタイルの建物で、今ではカルチェなどの高級店が入っています。

私は産業革命以降の近代〜現代史が好きで、一度この金融街を歩いてみたいと思っていました。外灘十八號に着くと直ぐに時代を感じさせる幅の広い階段を昇って行きました。もし出来るなら屋上から上海の街並みを眺めてみたいと思ったのです。船の往来に20世紀初頭の上海を思い浮かべながら、写真を撮りたいと興奮していました。屋上に辿り着くと扉があり、その前に美しい中国人女性が立っていました。「まだ開いてないわよ。17時過ぎに来るといいわ。」と彼女は言いました。屋上には何があるのかと尋ねると、「Rougeよ、後で来れば判るわ。」と言って扉の奥へと消えていってしまいました。私は出直すことにしてホテルまでの道を不思議な気持ちを携えながら戻って行きました。

暫く寝込んだ後、気がつくと外はすっかり暗くなっていました。ホテルを出ると南京東路は煌びやかなネオンに彩られ怪しく輝いていました。沢山の人通りを掻い潜って私はRougeへと向かいました。ビルの階段を昇りきるとそこには真っ赤なライトに染められたバーがありました。中にはカウンターがあり、白人達がカクテルを手に談笑していました。想像外の展開に驚きつつも、私は喉の渇きを潤す為にバーテンダーにリコメンドカクテルを頼みました。「あんた日本人だろ?だからこれを作ったよ。」と言いながら彼が手渡してきたのは「ワサビマティーニ」と呼ばれる創作カクテルでした。

カウンターを離れバルコニーへ進んでいくと、魔都上海の夜景が眼前に広がっていました。たなびく五星紅旗を見上げながら栄枯盛衰の歴史を幾重にもなぞって来た黄浦江に乾杯しました。思いがけずこんな飛び抜けた場所に来てしまい戸惑っていましたが、近代上海に集まった商人達も私と同じように大都会の空気を謳歌していたのだろうかと思うと嬉しくも滑稽な気分に満たされました。人々を魅了して止まない上海。絶世の上海美女との出逢いはこの後、この夜のことでした。

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ラベル:中国
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2017年07月24日

ドラッグについて

下記ご質問を頂きましたので私の見解を述べさせて頂きました。折角ですのでブログに残しておきます。

eidiさん
清原さんの覚醒剤事件ですが、警察の調査に一年半もかけたそうです。仮に3人でやってたとしても人件費だけで2300万円近くかけたのかぁと思うとちょっと使い過ぎなような気もしますがどう思いますかー?

Takora Lamborghini
清原さんを捕まえたいのじゃないんですよ。彼のようなお金のある素人を引き込むような組織を洗い出したいのですよ。1年半追いかけてきたのは、泳がせてたってことです。時間が経つにつれ清原さんと組織が接近することになるんで。で、その追跡が限界に来ていよいよ直接本人に聞かなければ状況証拠が揃わない、という事で逮捕状を出した、ということなんだと思います。

それとですね、日本では薬物に対する認知度が低くてドラッグというとあれもこれも危険と勘違いしてしまう傾向があります。オランダの基準でいくと大麻=マリワナはソフトドラッグ、それ以外をハードドラッグと区別しています。その理由は置いておいて、今回の清原さんの件がもしマリワナだったら、警察はタイーホに踏み切っていないと思います。彼が今回使用していたのが、メタンフェタミンだったというのが大きいのです。つまり覚醒剤ですね。ソフトドラッグと違ってハードドラッグは完全に販売を目的として精製される物ですので、組織的な動きが絡むんです。もちろん大麻も多少手を加える必要がありますが、自生してて簡単に作れますんで、はっきり言ってそこら中にありますし、単価も低いのです。そんなものはあまり商売にならないので、販売組織もそこまで一生懸命にはならないんですんね。

ハードドラッグ系で依存性が高く皆さんでも簡単に入手出来るものがあります。ニコチンとアルコールです。こう聞くとドラッグとの距離感が掴めると思います。一度手を出すと止められなくなりますよね。それと慣れないうちは気持ち悪くなったり吐いたりしますよね。ドラッグも実は同じです。慣れないと悪酔いみたいになって吐きます。ジミーヘンドリックスという薬物大好きなギターリストが居たんですが、俗にドラッグのオーバードーズで死にました、と言われています。これはもっと正確に言うと、過剰摂取で嘔吐してそれが喉と鼻に詰まって窒息死したんです。こういう通常であれば何てことない呼吸するという行為さえも前後不覚になりまともな判断が出来なくなって不可となってしまう。これがドラッグの怖い部分なんです。

こういう説明を一切せずに、ドラッグ=悪い、犯罪、危険、みたいな見出しばっかり報道して物事を深部まで報道しないマスコミは本当にクズだと思います。人々の射幸心だけ煽って、それこそドラッグだと思います。
ラベル:面白い話
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2017年07月23日

中東への旅

タコラというとASEANと中国をメインに旅をして、少し欧州とアメリカ西海岸を渡った人と思われていると思います。しかし実際にはもっと結構いろんな所を旅して回っています。今日はイラクへ行った時のことです。訪問したのは2001年か2002年頃のはずです。このフセインを模した紙幣は2003年まで発行されていたのと、2003年に米国の空爆が始まったので、その前だろうという推測です。そう、ハッキリと覚えていないのです。

実は中東はあまり楽しかった思い出がないのです。せっかく撮った写真のフィルムもネガもトランジットの途中でロストバゲージとなり紛失してしまいました。唯一残ったのがこの250ディナール札のみなんです。ですので、イベントや放送でも中東の話は殆どしません。旅の道中にも大して面白いハプニングも起こりませんでしたし。やっぱり、エロが無くては旅は面白くないです!←言っちゃった(笑)ドバイくらいですかね、そんな雰囲気を感じたのは。他の国はなーんも無し。

ヨルダンのアンマンに滞在していた時に、もう何処の国の人だか忘れてしまいましたが白人達にイラク行きの旅に同行しないかと誘われました。曰く、個人ではビザが取れず、5人以上のグループでツアーに申し込むしか手段がないとの事で人を探していると説明されました。私はほぼイラク行きを諦めかけていたので、この話は渡りに船で即同意しました。かくして、私はイラクの地に足を踏み入れたのでした。

現地では観光相からツアーガイドが派遣されてきました。1週間ほどの旅程で彼方此方へ連れて行かれました。その当時は遺跡群がフセインの命によって大規模に修復がされていました。しかしその内容が過剰と言いますか、普通に元に戻すという事が出来ないのか?と言いたくなるような具合で興醒めの連続でした。宿は毎晩日替わりで決まっておらず、宮殿のような豪華なものからゴキブリ達の歓待を受けるゲストハウス並みのところまで様々でした。

途中カメラで鉄道を撮影しようとした時にガイドの制止を受けました。グループの白人が教えてくれましたが、鉄道というのはその国の重要な軍事機密に値するので写真を撮る事は許されないのだと。しかし他は砂埃に塗れた古ぼけた街並みと砂漠のみで撮るものも無く、後悔を背負いながらひたすら旅程を消化する日々でした。その後は空爆によってその何も無い街並みも修復された遺跡も破壊されてしまいました。街の人達は優しい良い人達ばかりでしたが、何故だか殺伐とした思い出しか残っていないイラク。そのことを唯一思い出させるのが手元に残ったこの紙幣なのです。

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ラベル:イラク ヨルダン
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2017年07月22日

シェムリアップのパブストリートでカウントダウン

カンボジアのシェムリアップはアンコールワットのある街として有名です。しかし、ここ数年はこの街にあるパブストリートでの年越しカウントダウン路上パーティーもまた人を集めるようになりました。この動画は15年12月31日の夜、ニューイヤーまで後数時間というタイミングで私が撮影したものです。既に多くの人で通りは埋め尽くされていますが、カウントダウン時には全く身動きの取れない満員電車状態になります。

この時の様子を綴ったブログが彼方此方で見られますが、皆一様に最高だった!とにかく楽しい!今一番熱い!などと書いてあるのみです。具体的に一体何がそんなに凄いのかが全くわかりません。しかし、実はここはとんでもないことになっており、それが故に噂が噂を呼んで人が集まっているスポットなのです。

カンボジアはなんとマリワナが格安で手に入るのです。しかもパブストリートには売人がウヨウヨとおり入手は本当に簡単です。カウントダウンに集まっている観光客の多くは、マリワナをタバコに詰めたジョイントを持参しています。ストリートにはカウントダウンの電光掲示板があります。それでタイミングを見計らってみんなが一斉にキメ始めます。そしてThree, Two, One, Happy New Year!の掛け声と共に轟音でレイブパーティーが始まるのです。

一斉にシャツを脱ぎ、オパーイ丸出しで踊りまくる白人の女達!彼女達に群がり触りまくる男達!ストリートは何でもありの無法地帯へと変貌します。そして疲れ果てるまで狂気の乱痴気騒ぎは続くのです。ここへ来た者達はこのイベントを禁止されないようにと情報の発信に細心の注意を払っています。そう、これは嘗て各国の海岸リゾートで行われたフルムーンパーティーそのものです。場所を変えながら、バックパッカー文化は伝わり続けているのです。ジジイのタコラはここを避けて川縁から方々で打ち上げられる花火に見入っていました。10年前だったら私もパブストリートで踊り狂っていたかもしれません。



ラベル:カンボジア
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